牧師のメッセージ 続き 




 この間、歴代の牧師・伝道師、協力牧師・宣教師の尊いお働きと、教会員のみなさまの献身的なご奉仕に支えられて教会が成長し、主から託されている使命を果たすことが出来たことを、心から感謝して主の御名を崇めます。創立100周年記念事業として、牧師館新築、教会堂屋根・外壁塗装、聖書全巻リレー通読、記念誌編纂、そしてこれらの事業遂行のために記念募金が行われ、すべてが主の恵みにの内に導かれていることを覚え、心から主に感謝いたします。さて、本日の説教題を「主の恵みに導かれて」といたしましたが、これは現在編纂中の創立100周年記念誌のタイトルでもあります。今日は「コロサイの信徒への手紙」をテキストにして、100周年を迎えた私たちの教会へのメッセージとして、御言葉を取り次ぎます。
 教会は「キリストの体」です。主ご自身がご臨在しておられます。パウロはコリント教会宛の手紙で『あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です』と言っております。この言葉は、別の言い方をするならば、私たちは互いに、キリストに在って「神の家族」の一員であるということです。今日のテキストには、キリストの体なる教会を形成する私たちがいかに在るべきか、ということが示されております。『あなたがた』と言われておりますが、まさに100周年を迎えた私たちの教会への勧めとして、御言葉に聴いてまいりましょう。

 まず12節に注目したいと思います。ここには私たちがすでに『神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されている』と断言されています。このことはすべて神の恵みであります。本来ならば、そのような恵みを受けるに相応しくない私たちを、神は予め「選び、愛し、神の前に正しい生活をする者」にしてくださっているのです。ここに教会に対する「先行する神の恵み」というものが示されております。そして教会の働きは、この恵みへの応答としてなされていくのです。パウロはこのような神の恵みの前提に立って、私たち教会に対して、7つの勧めをしております。
 まず第1に「憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい」ということです。
 これらの「品性・徳」はすべて「聖霊の結ぶ実」であり、また「教会の頭であるイエス・キリスト」の生き方に示されております。
 第2は「互いに赦し合う」ということです。教会はキリストによって赦された人たちの群れです。互いに赦し合うことの根底に、『主があなたがたを赦してくださった』、つまりキリストの十字架があるのです。
 14節には第3のこととして『愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させる絆です』と言われております。ここで言われている「愛」とは、キリストの十字架の贖いによって与えられている愛、つまり、キリストに起源を持つ愛であり、そしてこの愛は「キリストの体なる教会」に満ち溢れております。「愛」というのは名詞形よりも、「愛する」という動詞形になって、その本質が示されていきます。つまり「愛」は、他者との関係・交わりに於いて、その本来の姿が示されるのです。因みに、ここで「絆」と訳されている言葉には「帯」という意味もあります。教会の福音宣教の働きはすべて、キリストの十字架の愛という「絆・帯」でしっかりと結び合わされることが、その土台・礎となるのです。  さて、パウロの7つの勧め、第4は「キリストの平和に支配される」ということです。教会が宣教の働きを進める上で、意見の相違もあることでしょう。あのバルナバとパウロでさえ、伝道の働きを巡って衝突しました。私たちの教会の信仰告白である「教会の約束」には、「私たちは、教会が人によってではなく、神によって出来たものと信じ」とあります。「人」が先に出る時、人間同士のトラブルが起こります。新約聖書に示されているパウロが手紙を書き送った教会もそうでした。しかし、すべてに先立って「主」が導かれることを信じ、主に委ねるならば、教会という信仰共同体は、キリストの平和で満たされていくことでしょう。  第5のことは「キリストの言葉が豊かに宿る」ということです。創立100周年記念事業の一環として、「聖書全巻リレー通読」を行いました。実は20数年前、私の母教会が創立50周年を記念して、「聖書全巻通読」を行いました。その時は、4日間96時間、連続して読み続けていきました。私も役員として企画段階から関わり、真夜中の立会人もいたしました。そして神の導きによって、95時間45分で読了いたしました。しかし、私たちの教会で連続4日間は難しいと思いまして、ゆっくり時間をかけて御言葉の恵みを味わって欲しいと願って、祈りつつ計画を進めてまいりました。この「リレー通読」を、100周年記念事業として行うことを話した時、ある方が驚きながら「本気ですか?」と聞きました。私は即座に「本気です」と答えました。私の本気。それは私の意志や忍耐力などによるものではありません。数カ月前から祈って、御心を求めてまいりました。そのような祈りの末に示された事業です。ですから「私の本気」ではなく「神の本気」なのです。様々な準備を経て、2016年9月4日にスタートしました。教会員や家族、求道者や他教会の方々など、多くの方がこのリレー通読に参加してくださいました。すべての方が、御言葉の恵みを味わったことと思います。まさにキリストの言葉が豊かに宿ったのではないでしょうか。こうして丸5年後の2021年9月5日の主日礼拝前、出席者全員で「ヨハネの黙示録」22章を読んだことは、みなさまの記憶に新しいと思います。口語訳聖書の「ピリピ人への手紙」にこのような御言葉があります、『あなたがたの内に働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである』。まさにこの御言葉を、主ご自身が成就してくださったのです。「聖書全巻リレー通読」は終わりましたが、みなさま是非「聖書全巻個人通読」をなさるようお勧めいたします。教会を形成する私たち一人ひとりが、聖書を通して語られる神の言葉・キリストの言葉を心に宿らせ、御言葉に養われ、励まされ、生かされていく時、教会には御言葉の恵みという、宣教のエネルギーが溢れることを確信しております、
 さて第6の勧めは「神をほめ讃えること・賛美」です。「賛美」とは、神の恵みの内なる経験を外に表現することです。主日礼拝で賛美歌を歌うことだけでなく、すべてに於いて神の恵みの応答として、また私たちの献身の証しとして、心から主をほめ讃えること、それが賛美の本質なのです。
 パウロが私たちに勧める第7のこと、それは「神への感謝」です。みなさまは、今日の「創立100周年記念礼拝」に「喜び」と「感謝」に満たされて集われたことと思います。「喜び」と「感謝」は表裏一体です。その源泉はキリストの十字架と復活にあります。そして教会は、主の贖いに生かされている人の群れなのです。
 「信仰共同体」である教会は「礼拝共同体」であり「宣教共同体」であります。この2つに加えて私はいつも、教会は「慰めの共同体」であると申し上げております。このような教会が、主から託されている使命を果たすために、様々な組織があります。同時に「キリストの体」であり、「神の家族である教会」には、組織だけでなく、そこにキリストの十字架の血が流れているのです。「エフェソの信徒への手紙」4章でパウロは「キリストの体なる教会を造り上げるために、主は聖なる者たちを整えて奉仕の働きをさせてくださる」と言っております。「聖なる者たち」とは、私たち教会員です。重要なことは、私たちが「整えられて奉仕の働きをさせていただく」ということです。この「整える」という言葉は「網を繕う」という意味があります。漁師の網が破れていては、魚を捕ることは出来ません。同様に「人間をとる漁師」として立てられている教会の網も、破れていては宣教の働きに支障をきたしてしまいます。網を繕わなければなりません。つまり「整えられる」必要があるのです。具体的には、祈りによる神との交わりを通して、また御言葉の恵みをいただいて、さらに、聖霊の満たしの中での教会員相互の交わりによって整えられることです。奈良佐保キリスト教会という「神の家族」は、キリストの十字架の贖いの血によって結び合わされております。私たちの教会が、このキリストの十字架の愛に生きる時、祈りの絆、御言葉を分かち合う絆、相互信頼の絆が生まれ、すべてが整えられて、キリストの福音を宣べ伝える働きを継続していくことが出来るのです。

 私は6月の主日礼拝で、マタイ福音書8章23節から27節をテキストに、「舟は揺れる、 しかし沈まない」というタイトルで御言葉を取り次ぎました。奈良佐保キリスト教会という「舟」も、その100年の歩みの中で、多くの試練の嵐に遭遇して、「舟」は何度も揺れました。しかし、この「舟」に一緒に乗っておられるお方に守られて、嵐の海に沈むことはなかったのです。2021年度の教会の年間主題は「主が共におられる」というものです。主は言われます。『わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる』。これからも「舟」は揺れることでしょう。しかし、インマヌエルの主が共にいてくださり、恵みの内に導いてくださることを、信仰によって確信することです。愛するみなさま。教会の2世紀の歩みに向けて、主にすべてを委ね、主が最善をなしてくださることを期待して、主の恵みに導かれて歩んでまいりましょう。                 







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